作品詳細

襤褸

襤褸

野間明子

第19回日本詩歌句随筆評論大賞 優秀賞受賞

まとってきた「時」はわたしの襤褸

辞書を引くと「襤褸」とは「ぼろぼろの布」「ぼろ」と出てくる。
野間明子の生きてきた日々は何気なく語られているが
どのような運命もさりげなく受け止めてゆく。





狭い橋の上ですれ違ったとき
赤ん坊を抱いた女が転げ落ちた
ぶつかったわけではない
そっとのぞくと
ずぶ濡れになった女が赤ん坊を抱いて流れのなかに立っている
ああ けがはないようだ
ほっとしてまた橋を渡りかけると
見損なったわ
後ろで声がする
驚いて振り向くと一緒に歩いてきた女が
背を向けて引き返していくのだった
ああ 失敗した
俺が悪いんだ
女は決して振り返らず
どんどん遠ざかっていく
ふたりが一緒に歩いてきた道のはじめ
小さく川が光っているあたりまで引き返して
光のなかへ見えなくなった



夕映

手探りで鍵を開けると
赤い部屋に息子が突っ立っている
父ちゃん
俺やっちゃった
やっちゃったって
母ちゃんはどうした
息子を押しのけて死体を捜す
なぜ 死体がないのか
なぜ 死体を捜しているのか
夕映が喉を破って俺からも噴き出しそうだ



幽霊

黄色くなるんだ
見てしまうと
白い壁
バターを擦ったみたいに 白い
天井とかも
それって
あれですかね
もろびとこぞりてを歌うか
目を瞑って家事をするとか
大丈夫かいおまえさん
外出てたほうがいいんじゃない
うんでも家にいたいから
黄色くなるってことですよね
歌うよもろびとこぞりて
だいじょうぶ小学校で演った貧乏靴屋の親爺
帽子を胸に当て主は来ませり主は来ませり
夜中のトイレも怖くない
黄色くなる
バターを溶いたみたいに
見てしまうと
今日なんか絶好の洗濯日和で
朝から干して真っ白く乾いたシーツ
午後まで干してふかふかの蒲団に掛けて
思わず
見たらば
バターを流したみたいに
滲んで
泛ぼうとする誰か知らない
来ないで 来ないで拳握って叩いて
叩いて叫んで叩いて叩いたら
移ろう夕光のなか
黄色褪せて
黒ずんで
悲しげに穴の眼を瞑って硬直したヒトのかたち
枯枝の両腕広げ
別になにもしないんだけど
なにか悲しくてね
目を伏せてももう消えないんだ

詩集
2022/07/17発行
A5判変形 (135x200) 小口折並製 カバー付き

1,650円(税込)