作品詳細

還るためのプラクティス

インカレポエトリ叢書 22

還るためのプラクティス

今宿未悠

第1回西脇順三郎賞新人賞 受賞作「猿」収録

息を吸って吐くこと
は、言葉に回収されなければいい




採血


三叉路
がうまれますこれから注射針もう一つの道になって
腕にもりあがる血管のひとすじ、
何度も確認するように撫でる指先、
アルコール液を含んだガーゼは冷たくて、
覆いかぶされる腕 血管のところ
「いたい」
いたいことは、始まる前からわかっていたし、始まった後やわらいでいく
注射針あたらしい脈になって
しゃばしゃば 外に流れ出ていく、液体

老朽化したダムの壁と壁のあいだから
豪雨に耐えきれず 外に流れ出ていく、
がさついた映像を眺めていた
頬杖をついて
生中継を
遠くのことだと思った

雨の匂いは、雨が降る前にわかる
たとえば氾濫する川のこと
マンホールから溢れてとまらない下水
骨の折れたビニール傘
暴風が
犬をまきあげて
攫ってしまった
「ふらつくかもしれないので、おちつくまで椅子にかけてお待ちください」

腕にバンドを巻かれているのは止血のため
待合室の椅子のやわらかく
精神科は精神を整えるための理想的な空間です
パウルクレーの絵画、クラシック音楽、淡い水色の壁紙
paul klee
klee
くれ
ください

犬を 追いかけるぞ
エスカレーターを駆け降りて豪雨に出ると風が髪をまきあげる髪は頭皮に繋がれているから攫わ
れない
「あぶない」
あぶないことは、出る前からわかっていたし、出た後も続いていく
「そんなこといわないでっ」
叫んで走り出した、握りしめた処方箋どろどろになって繊維になって溶けていくのを薬局の人が
サンダルを突っ掛けて追っかけてくる ここに持ってくるまでにそれ溶かしちゃいけないんだよ
お! いやだ犬を迎えにいかなくちゃいけないんですものわたし! いまごろずぶ濡れて雑巾み
たいになっている犬かわいそうに 河原にいるかな そう河原にいる 河原にいってみようか! 
薬局の人の手を引っつかんで風に乗る ひらり舞う 轟轟轟轟の風に乗れば意外とかろやかだ!

氾濫する川のこと

河原に向かいますわたしたち河原に向かえばきっとそこには犬がいるはずです助けてあげなくち
ゃならないかわいそうだ犬だから自分に何が起きているのかすらきっとわかっていないだろうお
薬もらうのその後でいいですので自律神経とか整えている場合じゃないんです精神より生命の方
が優先すべき事項でしょう!

氾濫する川のこと

ほらあそこが隅田川だ! 生中継でさっき見たけれどもこんなにも近かったなんて知らなかった
よもう他人事じゃないな、ああ、あんなところに雑巾みたいな犬がいる! 犬をください処方箋
はもうこの頃には溶けるどころか握っているものはもはや何もなかった、薬局の人のサンダルは
気づいたらふき飛ばされていた、でも犬がいますので大丈夫です犬は生きております! ほら濁
流に怯えている茶色い水にかわいそうに今助けてあげるから風の流れから離脱したい! しかし
ながら離脱できない! どうすればいいんだ私たちずっと風に乗ったままこういうのって普通犬
を助けようとした人も一緒に濁流に飲み込まれて行方不明になる理想的な結末からほど遠く! 
自律神経が不安定な私とサンダルを飛ばされてしまった薬局の人がずぶ濡れになった雑巾みたい
な犬を見ながら、空中で混乱している!






インカレポエトリ


詩集
2023/08/20発行
四六判 並製 小口折 帯

表紙撮影:花形槙

990円(税込)