七月堂通信

2015年10月の記事

三連休日記

 なにかと連休がちな日本である。日本人として生きてきてそれなりに長いが、日本ってこんなに連休ばかりだったろうか?嬉しいが、嬉しいけれど、これでいいのかという気もする。あまりこういう事は書きたくないが「日本は平和!みんな休日満喫すればいいじゃん!休み増やしちゃえばいいじゃん!」程度の話でこの状況になっているのだったら非常にまずいと思う。例の法案が通ってからというもの、あまりにもシリアスなニュースが欠如している気がする。なんだかこれで本当にいいのかと思うが、まあ休日を与えられてしまったら民草は受け入れるしかない。

 せめて今回の連休は有意義に過ごそうと思い積極的に出かける計画を立てた。ダラダラ過ごしてしまって気付いたら休み終わってましたーという経験だけは豊富なので、そのパターンは避けたかったのだ。そのパターンの良さもあるにはあるのだが、どんなことでも他の事はしないで同じことばかりしているのはよくない。逆にいつも外で充実した日々を送っている人はもっと七月堂の本を買って引き籠もるべきだろう。まとめ買いの量によっては特別な割引を考えてもいい。

 ということでまずは上野の東京国立博物館で開催されているブルガリ展に行ってきた。
七月堂からブルガリ!という近所の駄菓子屋から一気にアンドロメダ星雲に行ったような落差を感じて頂けるだろうか。それは自分が一番感じたが、まあ凄かった。
なんせ世界中の超ド級のセレブや超ド級の美女が熱狂する超ド級のアクセサリーのオンパレード。ここまで来ると「魅力」というより「魔力」と言ったほうがしっくりくる。会場を出た時には頭がふらふらしてしまっていた。
 実際問題、あそこまでの巨大な宝石、採掘段階からそれを手に入れるまでに人死にが何人出ていてもおかしくはない。そしてこれからもそういった事態がいつ起きてもおかしくないようなシロモノだ。やはり魅力より魔力である。そして見ているとその魔力にやられてくる自分がいるのもよくわかる。そして宝石の見事さの次に気付くのは圧倒的なデザインの着想、それを実現する圧倒的な職人技の世界だ。宝石を花瓶に見立てプラチナだかゴールドだかの枝振りの先に細かいルビーやらサファイヤが散りばめてあったり、うーん、凄い。つーか幾らすんだこれ!?
 ゲスな感想はさておきルパ~ン三世が今まさに狙っているであろうお宝を目の前にできて素晴らしい体験でした。このブルガリ展は11/29日まで開催されております。

 東京国立博物館は展示内容の充実した見所の多い博物館だ。それは百も承知なのだが、今回は他のものを見る気力が全くわかなかった。さすがにあの絢爛豪華な世界から土偶や仏像を見るテンションに自分を持っていくのは難しい。普段なら大興奮で土偶を見に行くのだけれども。とりあえずお気に入りのガンダーラの仏像だけは押さえてもう帰ってもいいかな、と思ったところでまだ昼の11時だった。精神は大満足しているのに時間的に余裕がありすぎて〈もっと何かするべきじゃないか〉という焦燥感に追われる展開。開館と同時に行くとこうなりがちだ。さてどうしようか。

 そこで東京ステーション・ギャラリーで『月映』の展覧会をやっているのを思い出したのである。つまり、田中恭吉の作品が生で見られるのだ。

 七月堂刊『田中恭吉 生命の詩画』という作品がある。画家であり詩人でもあった田中恭吉(1892-1915)の人生と作品を辿る、著者上野芳久さん渾身の一冊だ。自身も詩人である上野さんの洞察と想像力、観察眼の鋭さに唸ること間違いない、未読の方は是非!
 ・・・というその本を関連作品として月映展のミュージアムショップに置いていただいているという話は聞いていたのだが、その様子を直接確かめたわけではない。この機会に見に行くしかあるまい。上野から東京駅はとても近い。
 ここで一つ補足を入れると『月映』は田中恭吉が仲間達と作っていた詩と版画の同人誌。詳しい解説は他に譲るとして、というかもうこの文章の最終的な結論も言ってしまうと是非東京ステーション・ギャラリーに足を運んで直接見てほしい。特に本を作るとか、詩を書くとか、そういうことに関わりがある人は必見だと思う。

 どちらかと言えばブルガリから七月堂へのクールダウン的な気持ちで行った月映展だったが、想像以上に良かった。

 まずギャラリーの三階が第一展示室というのでエレベーターに乗る。
 白い壁に理路整然と額縁が並んでいる。照明は少し暗い、作品の保護のためだそうだ。ここから出るわ出るわ、昔の同人誌!それがただ額縁に入っているだけなのだが、経年変化と独特の手作り感がたまらない。あ、額縁に入れちゃうとこんなに芸術作品になっちゃうのか!と変に感動してしまった。七月堂で働いていると四十年前の同人誌とかがどんどん出てくるのだが、今度からカッコイイのが出てきたらこうやって飾ろうと思う。
 とにかく本を作ること、自分たちの作品を作ることへの情熱、それが全く色褪せずに伝わってくる。同人誌の名前は何がいいかな?なんていう内容の手紙も残っていた。これは自分の話だったらかなり恥ずかしいぞ、やめてくれ!という手紙だが、非常に微笑ましい良い手紙だ。細かい説明が無くても展示作品を追っていくだけで百年前の青春を一緒に過ごしているような気持ちになる。

 個々の作品への言及は避ける。専門家でもない人間があれこれ書くのは憚られるし、未見の人がいるかもしれないところでそういうことを書くのは無粋だ。
 ここで少し脱線すると、昔見ようと思っていた映画の結末を元水泳選手の女が映画雑誌のインタビューで思いっきりばらしていた。それを読んでその映画を見ること自体やめたことがある。あれはひどい。同じ思いを誰かにさせてはいけない。以前の「奈良日記」をお読みいただいた方はピンときただろう。そう、七月堂通信では肝心なところは触れないのだ。それは文章でその感動を伝える能力が無いからではなく、その感動を直接味わっていただきたいからだ。言い訳しているわけではない。そうなのだ。信じて下さい。

 話を戻そう。三階の第一展示室の次は階段を下りて二階へ。当然のことをなぜ書くのかというとこの階段が魅力的だったからだ。壁面が東京駅開業当時のレンガそのままの螺旋階段。たまらなく良い雰囲気だ。何度でも上り下りしたくなる。いやあさすが東京ステーション・ギャラリーだなぁなんて階段で満足していたら二階の展示室は壁面がそのレンガだった。

 「これは・・・めっちゃ良いぞ!」

 東京駅が開業した1914年に時を同じくして活動していた『月映』に関連する作品をその当時から残っている壁に展示する。なんて粋でハイセンスな展示方法なんだ!冗談抜きで鳥肌がたった。それと同時に猛烈にトイレに行きたくなって一度仕切り直したぐらいエキサイトした。この空間でこの作品を見ることが出来るという贅沢さ。繰り返しになるが是非直接足を運んで体験してほしい。

 そして確かに『田中恭吉 生命の詩画』はミュージアムショップで販売されていた。しかも納品した数からかなり減っているではないか!嬉しい・・・自分が感動した展覧会に自分が関わった本が売っている(そして売れている!)とはこんなにも嬉しいものなのか!後日著者の上野さんもこの展覧会に足を運び大興奮で大喜びだったという。そりゃそうだろうなぁ。
 興奮して「オレはこの本を作った会社の人間だ、この様子の写真を撮らせてくれ!」という旨を出来る限り丁寧に伝え、勢いでショップの写真を撮らせてもらった。この写真はたまに眺めて悦に浸っている。

 さてさて三連休日記として書き始めたが一日目だけで結構な文量になってしまった。二日目三日目はダイジェストでお届けしよう。

 二日目は浅草橋に会社系の備品を見に行ったが気に入るものが無く撃沈。結局ダラダラ町をうろつきCDを買った。

 三日目は連休一・二日目をメタルの祭典ラウド・パークで過ごした友人と「なんかカフェとかで道行く女の子をただ見ていたよね」というどうしようもない話になり、それを実行した。完全にクズの休日である。

 以上、三連休日記でした。

No.0044 2015年10月17日 O

掃除の秘訣

 昨年末に編集部がお隣のアパートに引っ越して以来ひたすら時間を見つけては掃除をしている。どんどんどんどん掃除する場所が出てくる。出版印刷業の性として他業種に比べて紙ゴミが多そうなのは想像していただけると思うが、どうやら七月堂は掃除手つかずで目の前の仕事をこなしていくしかない期間があまりにも長かったようだ。しかし暇になってしまったという悲しさも、まあ掃除する時間が出来たと思えば少しは上向きに捉えられるかもしれない。
 以前の七月堂はよくよく考えると誰も見ていない机の下の隅っこのほうで真っ黒になっている本があったり、本棚の足を支える目的だったのか昔の雑誌がドエライ雰囲気になって積まれたりしていた。引っ越しの時に棚をどけたら埃がまるでマフラーの如くそれはそれは大変なことになっていたし、思い出すだけでも身の毛がよだつ。他にも色々あったがあとは自粛しよう。
 こういった状況に今まで疑問を感じていないわけではなかったのだが、なにしろ一番の下っ端である自分が何か意見することでも無いと思っていた。ペーペーが突然「ここ汚いっすね!なんか本も黒いし、捨てちゃっていいっすか!?」とは言えない。およそ空気を読んでいるとは思えない言動をツイッターや通信で繰り返している自分だが、そういう空気を読む力はあるのだ。

 思えばこの怒濤の掃除の日々、口火を切るきっかけとなった大掃除があったあった。今書いていて思い出した。
 こういうことを書くのは会社の恥になるのでやめるべきだとも思うが(というかもうさっき色々書いてしまっているのだが)ここに書くことで未来永劫そういうことが起こらないように書いておこう。七月堂のトイレ、以前は物置状態になっていたのだ。勿論トイレとして使用は出来るが、なんつーか外したドアとか謎の板が積まれていたし、どっかから貰ってきたホワイトボードとか、とにかく板状のものが便座の横に立てかけてあり、もはや動かしても埃が舞わないぐらい埃が堆積していた。まあその状況にある日一人静かに爆発して黙々と片づけたわけだ。あの日から七月堂の何かが変わった、そういう記念碑的な一日だったと勝手に思っている。

 ここでこの通信を読んだ人にだけ、もうこれは間違いなく真理であると確信をもって言えるわたくしの発見した真実をお教えしたい。それは

「ゴミは風景になる」

ということだ。

 さてこれはどういう意味か。難しいことはない、そのまんまである。ゴミは、ゴミとして認識される時期を過ぎるともはや風景の一部になってしまって簡単にはそれがゴミだと気付けなくなってしまうのだ。
 七月堂のトイレしかり、本棚の下に積んであった雑誌しかり、これらはみんな風景になってしまっていたのだ。そこにストレンジャーであるわたくしがやってきて、それを排除したのだ。悪徳保安官に牛耳られる町に突如としてやってきた謎のガンマンのようだ。

 ここで今回のタイトルである掃除の秘訣、それはいつでも初めて訪れた人のような目で自分のいる空間を見ることだろう。自分の動線に疑問を持つのも良いと思う。具体例を挙げると、あれ、なんで自分いつもコピー用紙を玄関まで取りに行ってんのかなぁ?とか、こんな感じだ。

 今日のまとめ:掃除の第一歩は自分のいる空間に疑問を持つことでしょう。何食わぬ顔で風景にとけ込んでいるゴミを見つけ出し、それを排除できるのはアナタだけです。さあ、画面から目を離して周囲を見回してみましょう。

No.0043 2015年10月07日 O